[イベント]
『謀反のすすめ』と題し、先日、早稲田大学の大隈講堂でミニ講演しました。
時間が足りなく、当日は下記メモの一部のみ、お話しました。
講演メモ全文は以下よりダウンロードできます。
6月15日 早稲田大学の大隈講堂でのミニ講演メモ 『謀反のすすめ』
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こんにちは。
国会で今、話題になっている安全保障法案について。
集団的自衛権の限定的行使を認める等の法案に対し、衆議院・憲法審査会で「憲法違反だ」と3人の専門家が主張。与党がお招きした方までが違憲と指摘しました。会場の皆さま、今回の法案、合憲だと思う方、挙手をお願いします。
学者の先生方はその分野の研究に人生をかけるわけです。私も本学の政治学科3年生のとき、憲法の清水ゼミで一時、学者を目指したことがあります。人生をかけた専門家が「違憲だ」と口をそろえたわけです。重く、重く受け止めなければなりません。
今回の法案。
① 戦力、つまり自衛隊ですが、その活動の契機となる事象
② 自衛隊の地理的な活動領域
これらを広げるものです。
具体的に言えば、友好国が攻撃をされたときにも場合によっては自衛隊が出動する契機となり、また、地球の裏側まで出かけていく可能性を法案の文言上、否定しておりません。
「違憲だ」と学者の方に言われると、「そうかもしれない」と多くの方が思うわけです。
私は学生時代、自衛隊は違憲だと思っていました。
自衛権に関する過去の政府や国会議員、裁判所の見解はどうだったのでしょうか?
I. 自衛権の行使はできない。
憲法9条2項は「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」とあり、日本政府は当初、個別的自衛権の行使もできないとの立場。
吉田茂首相(1946年6月・日本国憲法草案を審議した衆議院本会議での答弁)
「第九条第二項ニ於テ一切ノ軍備ト国ノ交戦権ヲ認メナイ結果、自衛権ノ発動トシテノ戦争モ、又交戦権モ抛棄シタ」
共産党の野坂参三議員 (1946年8月)
「我ガ国ノ自衛権ヲ抛棄シテ民族ノ独立ヲ危クスル危険ガアル、ソレ故ニ我ガ党ハ民族独立ノ為ニ此ノ憲法ニ反対シナケレバナラナイ」と。
振り返ると、先見の明があった共産党であります。
II. 個別はOK。集団的自衛権の行使はできない。
時は流れ、東アジア情勢が変化。
1949年、中国共産党率いる中華人民共和国の建国
1950年、朝鮮戦争
1951年、主権を回復。サンフランシスコ平和条約
1954年、自衛隊発足
そして、衆議院予算委員会での大村清一防衛庁長官の答弁(1954年12月22日)
「自国に対して武力攻撃が加えられた場合に、国土を防衛する手段として武力を行使することは、憲法に違反しない。・・・従つて自衛隊のような自衛のための任務を有し、かつその目的のため必要相当な範囲の実力部隊を設けることは、何ら憲法に違反するものではない」
1959年12月16日、砂川事件最高裁大法廷判決
9条により、「わが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。・・・わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない」
1972年、政府見解
「自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。しかしながら、だからといって、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであって、それは、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。そうだとすれば、「わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」のであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる「集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない」
III. 集団的自衛権の一部は、行使できる。
2014年7月1日閣議決定
「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容される」
憲法の書きぶりは制定時からまったく変わっていません。一切の軍備を保持できないと言っていた政府が自衛隊を創設。政府の憲法解釈はこの時、「コペルニクス的大転換」をしたと、あるベテラン議員は指摘します。
先ほど、憲法学者の先生のご発言、ご研究の成果は重いと申し上げました。
しかし、もっと、もっと重いのは「憲法の番人」である最高裁の判断です。
砂川事件最高裁大法廷判決
「自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のこと」
ポイントは「国の存立を全うするために必要な自衛のための措置」。つまり、必要な範囲、程度がどこまでかということ。
必要な範囲は絶対基準ではなく、安全保障環境に応じて変わるということではないでしょうか。
第二次世界大戦直後
我が国はGHQの支配下。日本を攻める国などあり得なかったわけです。
何かあったら、「国連軍が助けてくれる」という淡い期待もあった。
→ 吉田首相が、自衛権は発動しないと言える環境にあったのです。
さて、今は、どうでしょうか。
「世界の警察官をやる」と言っていた超大国が「そんな役割はもう果たせません」と言っています。多くの日本人を拉致して連れ帰った国がミサイルや核の開発。
南シナ海では軍事超大国が岩礁を軍事目的のため、一生懸命、埋め立て。
朝日新聞によると、
「東アジアは今、中国の台頭によって、劇的な変化を迎えている。
習近平(シーチンピン)指導部の拡張路線は、急激であり、地域の秩序を破壊しかねない膨張である。安倍晋三首相が集団的自衛権の行使容認の理由にあげた「安全保障環境の変化」は確かに存在する。そもそも歴史上、東アジアに二つの世界的規模の大国が平和に共存したことはない。あつれきは今後も、さらに高まるに違いない」
平たく言えば、最近、日本の田舎のいたるところで、猪が出てくるようになりました。田畑をフェンスで囲まなければいけません。猪だけだと思っていたら、熊も出てきそうな状況になったわけで、何もしないわけにいきません。熊が民家を襲わないよう、「襲ってきたら、打ち返しますよ」と抑止力を高めないといけないわけです。
しかし、留意すべきこともあります。
太平洋戦争では我が国の領土に原爆が投下され、無垢の尊い命が失われました。沖縄の地上戦でも多くの市民が亡くなられました。本土を遠く離れたアジア太平洋地域でも、おびただしい数の軍人が戦死されました。銃弾ではなく、餓死、病死した人も数えきれません。戦争相手国の惨状にも胸が痛みます。
なぜ、開戦したのでしょうか。
自衛のためだったという指摘もありますが、振り返れば開戦前の交渉で耐え難きを耐え、踏みとどまることはできなかったのでしょうか。補給路が断たれてしまったのに、なぜ戦争を継続したのか、早期停戦していれば戦地での餓死・病死者数も、かなり減ったはずです。沖縄の惨劇、広島、長崎への原爆投下も避けられました。それなのに、なぜ、早期停戦の決断ができなかったのでしょうか。
なぜ、当時の新聞は戦争を煽ったのでしょうか。そして、なぜ、新聞の論調に大半の知識人、政治家が迎合したのでしょうか。
「空気」が支配する状況にあっても、Noと言える国家リーダーが必要です。しかし、支配されてからでは手遅れかもしれません。Noというリーダーは抹殺され、「空気」に拍車をかける新リーダーが喝采を浴び、登場する可能性もあります。
ひとり一人が歴史を前に、考えなければなりません。戦後70年。平和70年の間に政治、社会システムは大きく変貌しましたが、日本は「過去」を繰り返さないほどに、立派になったのでしょうか。そして、周辺諸国の状況はどうでしょうか。すべてを総合判断し、平和と独立を守るために必要なことを断行しなければなりません。
世の中には2つのグループ
① 抑止力が「戦争を作る」派
戦力や集団的自衛権の行使が戦争を助長すると考える人たち。
② 抑止力が「平和を守る」派
外交交渉などで友好国を増やすことも大事ですが、それだけでは不十分。
なぜなら、「台風に来るな」と頼めば、来なくなるわけではありません。
「平和が大事だ」と叫んだだけで、平和になるわけでもないのです。
私は徹底したリアリスト、現実主義者。ユートピア的平和主義では平和は守れません。
ユートピア的平和主義者の方にお聞きしたいのは
① 憲法前文は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と述べるけれども、そうした日本の信頼を近隣諸国は裏切っていないのですか?
② 「もし、日本の領土が侵され、家族が敵国の兵士に殺されそうになっても、あなたは座して死を待つのですか」。
最後に、集団的自衛権の限定的行使を認める今回の安保法案。
① 砂川事件最高裁大法廷判決の枠内での、政府解釈の変更であっても、それが政治判断として不適切だとの意見もあるかもしれません。その政治責任は、次期選挙で国民の審判を受けることになります。
② 政府が留意すべきことは最高裁で改正安保法の違憲・無効判断が出ないようにすること。
具体的には憲法81条により違憲審査権を持つ最高裁について、内閣が指名する最高裁長官、任命するその他の裁判官の人事に細心の注意を払うことではないでしょうか。
前置きが長くなりましたが、本日のお題は「謀反のすすめ」です。
ここからが本来のお話です。
私が目指す国家は「成長を続け、希望にあふれる社会」です。
希望とは「頑張れば、何かを実現できる」という前向きの心の姿勢です。
そのためには挑戦を続けることが大事です。
希望あふれる社会の実現に向け、大切なことは政治家自身がその手本とならなければなりません。自らを律し、日々、挑戦しなければなりません。
また、様々なルール改正、環境整備を通じ、社会に希望を増やすのが政治の役割です。
希望あふれる社会となるためには「稼ぐ力」を高め、景気をさらに良くしなければなりません。法人税率の引き下げなど税制改革、規制緩和にさらに取り組んで参ります。
「デフレ・マインド」の払拭
現在、我が国とって最大の課題は「デフレ・マインド」の払拭です。
リスクをとって、挑戦する人を増やさなければなりません。
「デフレ・マインド」の正反対の例を紹介します。
インフレ・マインドで、急成長した米Google社です。
2人の創業者の口癖は「許可を取るより、謝るほうが楽だ」です。
Google Search
You Tube
Street View
Google Earth
Google Books Library Project
同社の大半のサービスが当初、法的にはグレーとされました。しかし、「世界の人がワクワクするサービス」との確信に支えられ、同社は画期的なサービスに果敢に挑み、法廷闘争をかわし、世界の人に喜ばれ、ビジネスは大成功を収めました。
Google Searchが生まれた頃、日本にもNTTグループの検索エンジンが産声をあげました。
NTTが、Googleに負けたのは技術の差というよりもマインドの差です。
創業者の「許可を取るより、謝るほうが楽だ」という、突破モノ精神、ケインズの言葉でいえばAnimal Spirits(血気)が、旧公社のNTTに当時、欠如していたからです。
リスクをとって、挑戦する人を増やさなければなりません。
新しいことに挑戦する人を様々な形で、応援する。これが政治に求められています。
規制緩和が必要です。
Googleが成功した要因には、実は技術やビジネス・モデルのイノベーションの芽を摘まない法制度もありました。詳細は省きますが、米国の著作権法のFair Use(公正なる利用)という考え方。この規定を日本に導入するべきだとかねて考えており、党内の議論を引っ張って参ります。
「新しいことは常に謀反です」(蘆花)
新しい未来を拓く破壊者、つまり「正しい謀反人」が、息ができる、挑戦できる制度環境を整えるのが政治の仕事です。希望が挑戦を育み、個人と国家の成長につながり、また「新たな希望」を生みだすわけです。
私の大好きな言葉です。
「人生最高の瞬間はいつも、これからやってくる」。
挑戦を続ける限り、人生最高の瞬間はいつも、必ず、これからやってきます!
社会も、国家も同じ。希望を持って、成長に向け挑戦しなければなりません。
「石橋湛山記念 早稲田ジャーナリズム大賞」。この賞を母校からいただけないままに、政治の世界に飛び込んだことだけが、ジャーナリスト人生、唯一の心残りです。
石橋先生の残した言葉。「政治家に大事なことは、自分に忠実であること、自分を偽らないことである。また、いやしくも、政治家になったからには、自分の利益とか、選挙区の世話よりも、まず国家・国民の利益を念頭において、行動してほしい」。
そう行動いたします。早稲田ブランドを汚すことなく、身を粉にして国民と国家のために働くことを改めてお誓いし終わります。ご清聴ありがとうございました。